「あわい」の世界
日本語には、音読みと訓読みがあります
音読みは、中国語表記の読み方なので
音読みしかない漢字には、
古来の日本人にはなかった概念ということになります
例えば、「感じる」の感は
音読みの「かん」しかありません
なので、「悲しみを感じる」という表現は
古来の日本人には、なかったということです
悲しみはあっても、
それを客観的に「感じる」ということはなかったのです
ただ、悲しい
ただ、うれしい それだけです
仮に、そうした感情が起きても
それらに、とらわれることがなかったのです
子供は、悲しいときは、大声で泣きますが
すぐに、泣き止んでケロッとしています(笑)
けんかをしても、その後、すぐ一緒に遊んでいます
縄文の人たちは、大人も子供も
きっと、そんな感じだったのかも知れません
「死」についても
今とは、違った死生観を持っていたと考えられています
「生」には、音読みも訓読みもありますが
「死」(し)には、音読みしかない
なので、古来の日本人には、
永続的な「死」という概念はなく
死とは、死「し」んで、無くなるのではなく
「しなしなになってから生まれ変わる」と考えられていた
これが、古来の日本人の死に対する考え方で
死んで終わりではないのです
縄文の人たちは
「あの世」と「この世」を自由に行き来できていたのかも知れません
あるいは、
肉体を持った人と、
肉体を持たない霊人たちといつも一緒にいたのかもしれない
そこには、日本人独特の「あわい」の世界感があります
「あわい」とは、媒介とか間(あいだ)のことです
(過去ブログ) 「あいだを生きる」
生と死、異界と現実界、自己と他者・・・
2つのものが出会う あいだの世界
それが、「あわい」です
そこには境界がありません
常に、あいまいなのです
日本人独特のあいまいさは
古来の死生観から来ているのかも知れない
そう考えると妙に、納得できます
あいまいでいいのです
あいまいだからいいのです(笑)
そもそも、この世はすべてを善悪で分かられるものではない
人間も1人1人を、
善人か、悪人かに分けることなど出来ないのと同じです
このように、
西洋的な二元論には、常に矛盾がつきまとうものなのです
そもそも、分けられないものを無理に分けるから
矛盾が生まれているだけで、
分けなければ、矛盾や問題は起きません
また、生と死、善と悪・・・
二元論には、常に、深刻さがつきまとう
ところが
「あわい」には、矛盾さえ、認めてしまう懐の広さがあります
おおらかさがある
遊び心があります
すべてを認める寛容性があります
なので、安心できる
日本人は、元々おおらかでした
特に、縄文時代は
1万年以上も続いた文明にも関わらず
一度も争った形跡がない
白黒ハッキリさせないから、
争いが起きないのです
「あわい」で遊んでいたからです
そして、とてもグルメでした
縄文の集落には、貝塚もよく発見されていますが、
貝から美味しい出汁を取っていたそうです
美味しいものを、よく知っていました
何よりも
人は、美味しいものを食べているとき、
誰もが、ご機嫌さんでいることを知っていました
ご機嫌さんの周波数は、
自分も回りの人も幸せにします
なので、今の私たちに一番必要なことは
「遊ぶこと」、「楽しむこと」
これが、一番簡単に周波数を上げる方法です
クリエイティブな人ほど、常に童心を忘れません
たまには、童心に戻って思いっきり遊びましょう!
縄文の人たちのように
きっと、いいアイデアが生まれてくると思います(笑)